森山 儀文治(もりやま ぎぶんじ、1862年(文久2年)3月17日 – 1945年(昭和20年2月9日)は、日本の政治家、弁護士。

Moriyama_Gibunji

文久2年、信濃国筑摩郡郷原宿(現在の長野県塩尻市広丘郷原)にて出生。生家は問屋と呼ばれている。父、赤羽(あかはね)弥一の三男であった。明治時代の社会主義者赤羽巌穴は甥にあたる。1873年(明治11年)、同県安曇郡明盛村七日市場(現在の安曇野市)の森山惣七の養子となり、長野県師範学校を経て、明治法律学校に入学する。
21歳で代言人(弁護士)の試験に合格し、直ちに松本市にて弁護士を開業する。経済的困窮者の弁護には無料で応じる一方、書生も世話し、後に弁護士になった者は10余人を数える。
弁護士会内でも重きをなし、推されて松本町会議員、東筑摩郡会議員、東筑摩郡会議長、松本市会議員、松本市会議長、長野県議会議員を歴任した。
県会議員在任中に、県庁の松本移転運動を行った他、松本高等学校誘致運動に尽力した。
国政にも進出し、長野県第2選挙区より第14回衆議院議員総選挙に出馬。衆議院議員を務めた。
教育に熱心で、生前に遺言書をしたため、葬儀は簡素にし、その金を信濃教育会に寄付して子弟の育英資金にあてるよう家人に言い残した。
その信条は、人間はまず教育によって有為の人となることができる、というものであった。