田代 秋鶴(たしろ しゅうかく、1883年6月9日-1946年12月13日)は、長野県出身の書家。名は其次、字は信仁。秋鶴は号で、別号に五千石道人がある。

1883年、長野県東筑摩郡片丘村(現在の塩尻市片丘)に生まれた。1899年、16歳で教員試験に合格して県内の小学校に勤務した後、1903年に東京音楽学校師範科を卒業、東京市誠之小学校に勤務した。
書家としては1904年に丹羽海鶴に入門し、その後巌谷一六、日下部鳴鶴、比田井天来らの影響を受けて六朝書や顔真卿の書法を研究し、その書風は「古厚蒼勁にして閑雅」と評された。1907年に二松學舍(現二松學舍大学)に入学。その後東京高等師範学校講師、文部省教員検定試験(文検)検定委員、興亜書道連盟理事・総務を務めた。

空襲によって文京区伝通院の住居が被災したため、戦後田代は池袋に住まいを移して生活の再建に取りかかっていたが、その最中の1946年12月13日の晩に自宅に泥棒が侵入、これを取り押さえようとして格闘した結果、腹部を刺され、絶命。享年63だった。

tasirosyuukaku
春日井市収蔵品